『ジャック、起きて。ねえ、ジャック・・・』
目を閉じた少佐の顔のアップ。
妻の呼ぶ声が聞こえて、彼は、まぶたが痙攣している。
『そうか、帰れたんだな。クロオは、あいつは、どうしたんだろう?』
少佐は安心して、ゆっくりと目をあける。すると80歳の老人と、若い男が、目覚めた彼を、のぞきこんでいる。そこは、禅寺の本堂であった。
『Sh!t.』
少佐が、力なくつぶやく。
老師が『ジャ~ック』と、猫なで声で呼びかけていたのだ。
少佐の所持品からGHQのIDを見つけて、名前を知ったらしい。
彼は、動けない。太い柱に厳重に縛りつけられている。
静かな夜。鈴虫の声。
老師と黒龍の他に、もう1人。特別に、英語を話す男が、通訳で呼ばれていた。
その男が、少佐に言う。『きみは、進駐軍なんだね。所持品を見せてもらって確認したけど、まあまあ偉いんだね。少佐殿。
これは困ったことになったよ。きみを、帰せない。』
少佐を殴りつけた黒龍は、明らかに殺気を隠そうとしない。まだぶっとい棒を、握り締めている。
後ろから殴られて失神したせいで、事情をやや理解できていない少佐。
まだ意識がぼんやりしている白人の顔に、盲目の老師が顔を近づけてきた。老師は、少しは見えているようで、少佐の顔立ちを確認しているのだろうか。
その様子を、障子の隙間から盗み見ている大きな黒い瞳がある。いましがた、寺に忍び込んできたクロオである。もちろん、少佐を救出に来たわけだが・・・。様子を伺っている。
少佐は、ぼんやりと、まえに並べられた所持品を目で追ってゆく。気絶するほど殴打されたせいで、まだ虚ろな碧眼。ゆらゆら泳いでゆく目線。
GHQのIDカード、コルト、帽子、ナイフ、手帳、シガレットケース・・。
そのとき、碧眼の視線が止まった。探していたものがあったのだ。殴られたときのことを思い出しながら、シガレットケースを見つめる。
少佐の視線が止まったのに気がついた、通訳の男。彼は、シガレットケースを取り上げた。そして、ケースを開ける。
『煙草か。ん?』
何かを見つけて、少佐に尋ねる。
『What is this?』
シガレットケースの中には、煙草の他に、小さな赤くて黒みがかった玉状のものが、2つ入っていた。
『自決用のメディスンだ。俺は、アーミーだから。』
少佐は、すぐに説明した。軍人だから、死の覚悟は常にあるということを。
通訳の男は、少し笑ったようにも見えたが、すぐ少佐の言葉を日本語に訳した。
『自殺用の薬。』
そして真面目な顔で、その薬を老師に手渡した。それをうけとった老師は、静かに言った。
『少佐殿。これをあなたが飲まなけりゃあ、ワシが飲むことになろう。わかるな?』
通訳されると、少佐は困り顔。それを察して、また老師は言う。
『うちのものが、進駐軍に暴行を加えたとあれば、この寺はただではすまん。寺を護るものとして、この命をマッカサー元帥にさしだそう。』
マッカサー元帥の名が出たとき、少佐の顔色が変わる。
通訳の男が、老師は政界にもコネクションを持つことをつけ加えて、少佐に訳して聞かせる。
少佐の額を、汗が流れる。
黒龍は、いつでも少佐を叩き殺してやるといわんばかりで、鐘つき棒をつかんでいる。ただ、老師がそれを絶対に許さないようだ。
異様な緊張感が張りつめていた。
隠れてみているクロオも、息を飲む。
少佐の殴られた頭も、だんだんハッキリ意識を取り戻してきていた。
『この国は、戦争に無条件で負けたのじゃ。みな、覚悟はできておるっ。』
老師はそう言うと、薬をすべて口に入れ、ガリガリと噛み砕いた。
『Noooooo!!!』、少佐が叫び声をあげる。
黒龍が落とした棒が、鈍い音を立てて床に転がる。
通訳の男は、下を向いて、膝の上で両拳を強く握りしめた。
老師は、ひとしきり噛みくだくと、合掌。そのまま、卒倒した。素早く、黒龍の大きな体が動き、小さな老体を抱きとめる。
『老師っ!しっかりしてください。』
老師がぐったりと頭をたれている横で、口を抑え震えている通訳の男。
黒龍は大声で泣き、老師を抱きしめていたが、すぐに少佐に向き直って睨みつけた。
『許さっ・・。あっ!』
驚きの声を上げる黒龍。
視線の先には、なんと逃げる少佐とクロオの後ろ姿。ここぞと隙をついて、隠れていたクロオが、ナイフで縄を切ってしまった。
『逃がしてなるものかっ。老師の仇いいい。』
狂ったように走り出した黒龍。
しかしすぐさま、黒龍の性根玉を後ろからふん捕まえる大きな声が、寺の本堂にひびく。
『馬っ鹿者おおおおおおん。』
聞き覚えのある怒声。動けなくなる黒龍。
声は、外にまで響き渡り、鈴虫たちがいっせいに鳴くのをやめる。静寂。
泣きじゃくりながら振り返る黒龍。みると老師は、通訳の男に助け起こされて、すでに薬を吐き出していた。
『キヨハルは、食えぬものをワシに渡さん。』
キヨハルとは、老師に呼ばれた通訳の男。老師に口を拭う紙を渡しながら、彼は言う。
『老師の演技が、少し大根でしたがね。笑いをこらえるのが大変でしたよ。』
老師は、ご機嫌である。 『そうか。口直しに呑むから、付き合え。』
目を点にして、うろたえる黒龍。 『ろ、ろうし・・・』
まだ事情が飲み込めないでいる黒龍に、キヨハルが、説明する。
『老師が飲んだのは、オピウムだよ。口に入れても、死ぬことはない。』
白隠様の像。心なしか微笑んでおられようで、『うむ、何かは知らなんだ。これは、けっこうな効き目じゃ。』 と、老師も笑っている。
キヨハルは、あんなにガリガリ噛むからですよと老師にやさしく応え、黒龍に説明を続ける。
『あのアメリカ人は、アーミー上がりのGHQ高官。戦場で恐怖や不安をとるのにオピウム使い続けて、癖になったんじゃあないかな。
ただ、戦争が終わってもオピウムが手放せない。あのアメリカ人が嘘をついたのは、そこを知られたくないからさ。
麻薬中毒だから隠すのはもちろんのことだけど、GHQ高官のスキャンダルにされるとキツいだろう。
彼は戦争が終わっても、国策の最前線にいて、敵はソ連だけでなく、GHQやアメリカ国内にもいるんだろう。』
キヨハルは、職業軍人として生きる少佐に同情をしめし、さらに続ける。
『それでも、自決用の薬だなんて、下手な嘘。老師は、その嘘を逆手にとったというわけさ。
毒じゃないから、飲めばオピウムだとバレる。老師の体当たりのおかげで、我々はあの男たちを止めおく必要が無くなった。ささ。』
若い黒龍は、まだポカーンとしていたが、酒の用意を申しつけられて、先に庫裡へ。
老師も男に支えられ、本堂を出ていく。
オピウム。阿片のことである。
大規模に栽培し売るものに、莫大な金をもたらした。様々な職業の人、その家族が、一攫千金を夢見て日本から大陸に入植した。そう遠くない時代の話である。
日本から渡ってきた人は、他の外国人と同じように、企業にケシを栽培させ、阿片を取引し、戦費をまかない蓄財した。もちろん阿片だけではないが、その植物は、満州国だけでなく、世界戦争を動かした。
本堂と庫裡をわたる廊下、老師とキヨハルが話している。
『仕返しには、来ないでしょうね。恨まれなければ、いいのですが・・・』。キヨハルは、心配してみせる。
『あの軍人、ジャックといったかの。こんど坐りにくるように、言っておけ。
おまえ、東京では会うこともあるじゃろう。』
老師がそう言って笑う。
すると、頭を下げ恐縮するキヨハル。彼は、覚えていた。
1年ほど前に日本橋室町で、少佐(ジャック)に会ったことがある。夜の社交場、ライカビルのサロン。
キューバの葉巻、酒は危険な密造ではなく酒造/メーカーの有名な上等品。芸能人や政治家が来るセレブ御用達の場所だ。
GHQ高官と右翼の大物、右から左まで、閣僚や政治家がなかよく呑みにくる。トップオブ政財界人が集うが、朝鮮や中国人の活動家も来る。
大物女優から、外国の軍人たち。金になる情報があつまり、スパイやヒットマン、セクシーに着飾ったローズ。
多様な業界から、人が集まってきていた。そしてみな反共を肴に、仲良く呑んでいる。
連合軍のソ連人が来たのは記憶にないが、右から左まで占領下の東京の偏ったVIP人脈が、そこにあった。
そのサロンは貿易会社が経営していて、キヨハルと少佐は、入手困難なJOHNY WALKERを一緒に飲んだ。
少佐は年下で、友だち思いの気のいいやつ。そんな印象だった。
少佐とキヨハルのつながりを見破った老師。
『まるで見ているかのようですね・・・。』と、キヨハルは言いかけてやめた。
盲目でいて、お見通しなのである。